明治の初め頃、札幌の建設に使う木材を生産した厚別(あしりべつ)水車器械所という北海道開拓使の製材工場が、「アシリベツの滝」の近く、今の滝野すずらん丘陵公園の敷地内にありました。その用水路跡などの産業遺構が、今も人知れず残っています。
11月15日(水)、その厚別水車器械所の遺構を見学する会が現地で行われました。主催は滝野管理センターで、「滝野の森クラブ」のガイドや、あしりべつ郷土館(清田区)のスタッフ(郷土史家・了寛紀明氏、「ひろまある清田」代表・川島亨氏)ら13人が参加しました。
厚別水車器械所は明治13年(1880年)から明治19年(1886年)までの6年間、設置され稼働しました。お雇い外国人ケプロンの進言で開拓使が造った製材工場でした。
当時、周囲の森林は厚別(あしりべつ)官林(今の羊ケ丘通付近までありました)と呼ばれ、トドマツ、エゾマツなどの良木の宝庫でした。その木を伐採して、札幌のまちを建設するために大量の材木を生産、供給しました。
厚別川(あしりべつ川)の水を使った米国製水車2基(82馬力)が動力で、アシリベツの滝の上から手掘りの用水路で水を導いて水車を回しました。主な生産品は屋根葺き材(屋根柾)で、初めは牛の背に載せ、のちに馬車で尾根道を通って札幌まで運ばれたといいます。
札幌農学校の演武場(今の札幌時計台)や豊平館にも厚別水車器械所の木材が使われたといいます。ただ、札幌から遠く運搬費用がかさむなど赤字経営だったようで、操業は6年で終了しました。
滝野すずらん丘陵公園の渓流口から1㎞ほど道道真駒内御料札幌線を真駒内方向に行くと、道路左側に白御影石の記念碑「厚別水車器械所跡」が建っています。隣には、器械所の建物の外観写真の写ったレリーフも建っています。1998年、芸術の森地区町内会連合会が建てたものです。
ただ、車でここを通っても、気づかずに通り過ぎてしまう人が大半だと思います。
厚別水車器械所は、この記念碑のすぐ裏にありました。今は柵が2重にあり(1つはクマよけ)、立ち入り禁止になっていますが、今回は特別の許可により、中に入らせていただきました。
滝野の森クラブ歴史チームの案内で見学。まず、大きなくぼ地が目の前に現れました。アシリベツの滝方向からの素掘りの用水路跡と大きなくぼ地が目に飛び込んできました。大きなくぼ地は、深さ8メートルもあるそうで、器械所のアメリカ製タービン(水車)が収まっていた場所とのことです。
器械所は3階構造で、1階にタービン室、2階と3階に製材の各種機械があったそうです。器械所の周辺には、事務所、官舎、風呂屋も建てられたそうです。
また、今の記念碑のある付近一帯は大きな池が造られ、厚別川の水を引き入れ、製材する前の木の貯木場になっていました。今の道道真駒内御料札幌線の道路は、この貯木場の上に造られたのですが、その面影は、今は全くありません。
周囲は笹が生い茂り、樹木にも覆われていますが、長さ数十メートルに及ぶ大きな用水路跡が今もくっきりと残っているのは感動的です。明治の初め、厚別川の上流のこの山深い地で、札幌の建設のために、男たちが大型機械を動かして木材生産に励んだ壮大なドラマがあったのでしょう。その痕跡が目の前にあるのです。
器械所が閉鎖されてから10年ほど、滝野は無人の地域になります。明治30年代になって開墾が始まりますが、厳しい気候のため離れていく人も多く、滝野の開拓は苦労が絶えなかったようです。
戦後も一時、進駐した米軍に接収されたりしましたが、1970年代になり大規模公園の適地に選ばれ、北海道開発局により、まず昭和58年(1983年)に渓流ゾーンがオープン。最終的に2010年に滝野の森ゾーンが完成し、滝野すずらん丘陵公園として全面オープンしました。
滝野は、昔は「器械場」という地名でした。開墾が始まり人々が入植したことから、明治35年(1902年)に地名を付けました。器械所閉鎖から年数が立っていましたが、この地域は器械所から始まったとの思いから、当時の人は「器械場」と名付けたのでしょう。小学校も「器械場小学校」であり、神社も「器械場神社」という名でした。
昭和19年(1944年)、地名を、アシリベツの滝などから「滝野」に改称しました。小学校も滝野小学校、神社も滝野神社に変わりました。滝野小学校は昭和46年(1971年)に廃校となり、今は校舎を利用して滝野自然学園(宿泊型自然学習施設)になっています。
器械所跡から真駒内方向にしばらく行ったところに「器械場入口」というバス停があります。滝野すずらん丘陵公園のカントリーハウス(レストラン)の建物は、厚別水車器械所の外観をモチーフにしたものです。今も、厚別水車器械所の名残があるのは興味深いです。